Se connecter離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在
久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も
ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴
筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり
筆跡鑑定人から追加報告が届いたのは、八億円分の保険契約を分類した翌朝だった。久世の事務所へ入ると、机の上には美琴の自然筆跡と、偽造の疑いがある署名を年代別に並べた拡大資料が何枚も広げられている。鑑定人は前より厚いファイルを持参しており、挨拶を終えるとすぐに一枚目を美琴の前へ置いた。紙には二十二年前、十二年前、三年前という三つの時期が大きく区切られ、それぞれの署名の特徴が赤い線で示されていた。「先日の鑑定では、長期間にわたり一つの基準筆跡を模倣している可能性が高いと申し上げました。ただ、資料が増えたことで訂正すべき点があります」美琴は椅子へ深く座らず、背筋を伸ばしたまま鑑定人の指先を見た。先日の鑑定で、偽造署名だけが年月を経ても不自然なほど変わらないと説明された時、自分の名前を一人の誰かが二十二年間練習し続けてきたように感じていた。けれど鑑定人は、初期の契約書、中期の保証契約、直近三年間の医療関係書類を順に指し、それぞれ筆圧の入り方や払いの癖が異なると説明した。「少なくとも三種類あります。同一人物が年ごとに書き方を変えた可能性を完全には否定できませんが、自然な運筆の癖まで比較すると、別人が模倣したと考える方が合理的です」「三人……」美琴は自分の口から出た数字を聞き、胸の内側が冷えていくのを感じた。一人の執着なら、まだ理解の仕方があった。けれど三種類ということは、自分の名前が一人だけの秘密ではなく、複数の人間へ渡されていた可能性がある。鑑定人は最も古い署名を拡大した。二十年以上前のそれは、美琴が十八歳から二十代前半に書いていた字をよく写しているが、「榊」の木偏の入りが不自然に慎重で、本人より線を置く前のためらいが大きいという。中期の保証契約では逆に、形を覚えた人物が速く書こうとした痕跡があり、「琴」の最後の払いだけが本人より強い。直近三年間の医療同意書や面談関係書類は、さらに別の特徴を持っていた。「この三年分だけは、形を写したというより、日常的に筆跡を見ている人の模倣に近いです」久世が眼鏡の位置を直した。「どう違うんです」鑑定人は美琴本人の最近の礼状と、偽造された移植同意書を重ねた。文字の大きさは完全には一致しない。それでも、年齢と服薬の影響で最近の美琴に現れていたごく小さな震え方まで、偽造側が部分的に取り込んでいる。「昔の署名見本だけを渡された
保険会社から取り寄せた資料は、久世の事務所の長机を半分以上埋めていた。契約者名、被保険者名、受取人、保険金額、契約日、増額日、特約、払込口座。美琴は一枚目の証券を手に取ったまま、しばらく文字を追うことができなかった。以前に見つかった生命保険だけでも数億円だったが、今回の照会で契約先が一社ではないことが分かった。社名の違う証券が年代順に並べられ、そのどれにも〈榊原美琴〉という自分の名が記されている。「現時点で確認できた死亡保障の合計は、およそ八億円です」久世の声はいつもと変わらなかった。数字が大きいからといって声を落とすことも、美琴の顔色を窺って言葉を濁すこともない。美琴はその方が助かった。八億円という額に感情を与えられれば、自分までその重さに押しつぶされそうだったからだ。「受取人は全部、征士郎さんですか」「いいえ。個人受取が三件、榊原医療開発が二件、ミコト・アセットが二件です。一部は契約途中で受取人が変更されています」久世が一覧表を差し出す。美琴は指先で行を追った。初期の契約は数千万円規模だった。それが更新や追加契約を重ねるたび、少しずつ増えている。一度に八億円の死亡保障をかければ保険会社側でも不自然に見えるが、二十年以上に分散し、会社の事業拡大や家族構成の変化に紛れさせれば、外からは一つの意図として見えにくい。「最初から八億円だったわけではないんですね」「ええ。長期間かけて積み上げています。大きく増えた時期は三度あります」久世は赤い付箋を貼った三箇所を示した。最初は宗一郎が亡くなった直後。二度目は五年前、冬真の爆発事故が報道された直後。そして三度目は三年前、華帆の肝疾患が急激に悪化し、移植の検討が始まった時期だった。美琴は最後の行に目を止めたまま、契約金額よりも日付を何度も確認した。父が亡くなった直後に保険を増やされたことは、今まで見てきた資産移動と結びつく。冬真の死亡報道後の増額も、すでに見つかった高額保険と一致している。けれど華帆の病状が悪化した時期に、さらに死亡保障が増えていることだけは、どうしても腑に落ちなかった。「おかしくありませんか」窓際に立っていた冬真が視線を向けた。美琴は三年前の契約書を指で押さえ、増額日と華帆の検査記録をもう一度見比べた。どちらも同じ月に集中していることを確かめると、胸の奥に残っていた違和感がますます大きく